[Exclusive] Ant Banks (FLAPPING PLAYAS Japan Tour) 獨家訪談 2025
![]() |
訪談錄製於2025.04.20 (Special Thanks to II Tight Music) |
自從去年首度體驗 Bay Bound 活動之後,我一直想著未來是否還有機會再訪日本。沒想很快在四月就再次成行了——這次是為了奧克蘭嘻哈傳奇 Ant Banks 的來日演出。也因此展開了另一趟短暫卻充滿收穫的日本快閃之旅。感謝 II Tight Music 的安排,在他演出前的空檔進行了一段簡短的訪談。關於 Ant Banks 的介紹請參考前文,這邊就不再贅述了。
目錄 | Table of Contents
- 1. Early Career and MC Ant|初期經歷與 MC Ant
- 2. First Album Experience|錄音回憶
- 3. Selling Tapes Independently|獨立販售卡帶的成功
- 4. Streets Financed Hip-Hop|街頭資助嘻哈
- 5. Impact of Dangerous Crew|Dangerous Crew 的影響力
- 6. Evolution of Hip-Hop|嘻哈音樂的演變
- 7. Jive Records Contract|與 Jive Records 的合約
- 8. T.W.D.Y. & Players Holiday|T.W.D.Y. 的組成與《Players Holiday》誕生
- 9. Lil Gangsta P|關於 Lil Gangsta P 與專輯創作
- 10. Advice for the Next Generation|給年輕一代的建議
1. Early Career and MC Ant|初期經歷與 MC Ant
Ant Banks:Well, for me, my music career started somewhere around 1980–81. I was in the band, and I was playing saxophone, trumpet, clarinet—all these instruments.
- 對我來說,我的音樂生涯大概是從 1980 或 1981 年左右開始的。我當時在學校的樂隊裡,吹薩克斯風、小號、單簧管……各種樂器都有碰。
- 僕の音楽キャリアは1980年か81年ごろに始まりました。学校のブラスバンドにいて、サックスやトランペット、クラリネットなど、いろんな楽器を演奏していました。
The teacher used to send us home with this classical music. And after so long, I just got tired of playing the classical music.
- 老師常常會讓我們帶一些古典樂回家練習。不過練了久了,我開始覺得古典音樂很無聊。
- 先生はよくクラシックの譜面を宿題にして渡してきました。でも長くやってるうちにクラシックに飽きてきたんです。
I was always listening to the funk. I was hearing all these horns and stuff going on in Parliament songs, Ohio Players songs—all these funky horns. So basically I just started learning how to play funk on my horn.
- 我那時候一直在聽放克音樂。像 Parliament、Ohio Players 的歌裡那種超級有勁的銅管聲,我一直都在聽那種。所以我就開始學習怎麼用自己的樂器演奏放克音樂。
- 普段からファンクばかり聴いてました。ParliamentやOhio Playersのファンキーなホーンが本当に印象的で、いつも聴いてました。それで、自分の楽器でファンクを吹く方法を学び始めたんです。
“I want to play that.” So I started learning how to play funk on my horn.
「我也想吹奏這種音樂」所以我就開始學習怎麼用自己的樂器演奏放克音樂。
「俺もこんなの演奏したいな」それで、自分の楽器でファンクを吹く方法を学び始めたんです。
- 我開始想:「幹,我應該做自己的音樂,而不是一直吹別人的歌。」所以差不多就是那樣開始的,大概是 1981 或 1982 年。
- それから「人の曲じゃなくて、自分の曲を演奏できるようにならなきゃな」って思ったんです。そんな感じで始まりました。だいたい1981年か82年くらいですね。
- 我跟 MC Ant 是高中同學,我們唸的是 Castlemont 高中。
- MC Antとは高校の同級生で、Castlemont高校に通っていました。
He used to just be hanging out rapping in the hallways. I was like, “This dude, he got some skills.”
他那時候常常在走廊上 freestyle。我當時想:「這傢伙有料耶。」
廊下でよく即興ラップをしてたんです。「この人、マジでうまいな」と思いました。
- 他在操場也會 freestyle,旁邊都圍著一群人聽他 rap。我們開始聊音樂,也開始一起做一些東西。這一切也就從那時候開始了。
- 校庭でもラップしてて、自然と人が集まってきてました。それから音楽について話すようになって、少しずつ一緒に作業を始めたんです。すべてはそこから始まりました。
2. First Album Experience|錄音回憶
We recorded this album in a little rinky-dink studio in San Francisco with this guy named Raul. And he was trying to tell us how we need to record our stuff and how we need to change it around if we want to be big-time and stuff like that.- 我們當時是在舊金山一間很簡陋的小錄音室錄這張專輯的,老闆叫 Raul。他一直試著跟我們說要怎麼錄、要怎麼修改,這樣我們才有機會「紅起來」。
- あのアルバムは、サンフランシスコにあるちっぽけなスタジオで、Raulっていう男と一緒に録音してたんです。Raul は「有名になりたければこう録音しろ」「こうアレンジしろ」といろいろ指示してきました。
- 我們也算是有聽他的建議,但結果並不太如我們預期。不過說真的,這段經歷反而幫助我們學到了音樂產業的運作。也讓我們更清楚之後自己想走什麼方向。
- 一応言う通りにやってみたんですが、うまくいかなかったですね。でもその経験があったおかげで、音楽ビジネスのことを学べたんです。そして、自分たちがどんな方向性でやっていきたいかも見えてきました。
This was the beginning—I wouldn’t trade these days for nothing. It was cool.
所以這算是我們一切的起點吧。這段回憶真的很棒,我完全不會拿它換別的。
あれがすべての始まりでしたね。あの頃の経験は最高で、絶対に手放したくない思い出です。
- 他就是我兄弟,你懂我意思吧?
- 本当に仲間でしたよ、わかりますよね?
His legacy will forever live as one of the first MCs.
他會永遠被記住為最早的一批饒舌歌手之一。
彼は初期のMCの一人として、ずっと語り継がれると思います。
- 基本上,在 Too Short 之後就是 MC Hammer,再來就是 MC Ant,差不多就是這個順序。他會作為奧克蘭的傳奇人物之一永遠被記住。
- 順番で言うと、Too Short、MC Hammer、そしてMC Antという感じでしたね。オークランド出身の偉大なラッパーの一人として残るでしょう。
- 他真的留下了自己的足跡。而我們一起創造了歷史——我、MC Ant,還有 Terry T。
- 彼はしっかりと自分の足跡を残しました。僕とMC Ant、そしてTerry T、三人で歴史を作ったんです。
3. Selling Tapes Independently|獨立販售卡帶的成功
Yes, we sold a lot of records independently—probably like 50,000 or 60,000 independently.- 對,我們那時候是完全靠自己獨立發行,總共大概賣了五萬到六萬張。
- はい、完全インディペンデントでやっていて、たぶん5万〜6万枚は売りました。
- 對,我們那時候是完全靠自己獨立發行,總共大概賣了五萬到六萬張。
- はい、完全インディペンデントでやっていて、たぶん5万〜6万枚は売りました。
And basically, that was the only way for us to get out there—was to do it independent.
其實對我們來說,當時要曝光、要被聽見,唯一的方式就是走獨立發行。
当時は世に出る唯一の方法がインディーズだったんです。
- 因為在 80 年代中期,灣區根本沒有主流唱片公司會理會本地音樂。那大概是 1987 年的事。
- 80年代半ばのベイエリアには、地元の音楽に注目しているメジャーレーベルなんて存在しませんでした。これは1987年ごろの話です。
- 所以我們只好自己壓片,拿去找發行商,再放到唱片行寄賣。最後還真的做出一些成績來,整體來說,那段日子真的很酷。
- 自分たちでプレスして、ディストリビューターに持っていって、レコード店に委託販売してました。それでうまくいったんです。あの時代は本当に最高でした。
4. Streets Financed Hip-Hop|街頭資助嘻哈
- 我完全同意。
- まったくその通りだと思います。
There were a lot of street hustlers that were looking to clean up some of their money, and looking for artists to put out on their independent record companies.
當時有很多街頭的生意人,他們想要「洗白」資金,就會找一些藝人,透過開獨立唱片公司幫他們發片。
ストリートの連中が、資金をクリーンにするためにインディーレーベルを作って、アーティストに出資していたんです。
- 所以可以說,整個奧克蘭的獨立音樂場景就是靠街頭的錢撐起來的。
- だからオークランドのインディーズシーンは、基本的にストリートの金で成り立っていたんです。
- 這也正是我們的傳承,你懂我意思吧?我們算是替獨立音樂開了條路,像 Master P 那些後來的人,其實都是照我們的方式在走。他們這些玩法,其實都是從我們這邊學去的。
- それが俺たちのレガシーなんですよ。わかりますよね?僕たちがインディーズという道を切り開いて、その後にMaster Pのような人たちが続いたんです。そのやり方は俺たちから学んだもんなんです。
5. Impact of Dangerous Crew|Dangerous Crew 的影響力
The Dangerous Crew is really one of the most… that’s exactly what it is. The title—The Dangerous Crew—was dangerous.- Dangerous Crew 絕對是最猛的一群人沒錯,它的名字本身就代表了我們的風格——我們真的很「危險」。
- Dangerous Crewは本当にヤバいチームでした。名前の通り、「危険」っていう意味そのままです。
As far as the production side, the rapper side, the engineering side, the mixing side—we was just a crew that couldn’t be messed with.
無論是製作、饒舌、錄音、混音各方面,我們都是一群沒人能碰的狠角色。
プロダクション、ラップ、エンジニアリング、ミキシング、すべての面で誰にも負けない最強のクルーでした。
- 我們一起做出了超多熱門歌曲。大家也各自有各自的個人專輯。後來我們再合體,一起做Dangerous Crew的合輯。
- 一緒にたくさんのヒット曲を作りました。メンバーそれぞれがソロプロジェクトも持っていました。そしてグループとして集まり、アルバム『Dangerous Crew』を制作しました。
- Goldy 有很不錯的發展,我也是,Pooh-Man 也一樣。還有 Spice 1、Too Short、Father Dom。我們就是一個超強的團體,彼此支援、合作無間。
- Goldyも活躍してたし、僕も、Pooh-Manもそれぞれ順調にやってました。もちろんSpice 1、Too Short、Father Domも。僕たちは一つの巨大なユニットでした。
6. Evolution of Hip-Hop|嘻哈音樂的演變
Q: Do you think rappers today are on the right track—carrying the torch, keeping the legacy going?
- 你覺得現在的饒舌歌手走在正確的路上嗎?他們有把這份傳承延續下去嗎?
- 今のラッパーたちは、あなたたちの遺産を受け継いで、正しい道を歩んでいると思いますか?
Absolutely, I do. Because kind of like—from the ’80s, it was a lot of that sloppy hip-hop sampling and all of that.
- 我覺得他們絕對有。因為其實 80 年代的時候,嘻哈還很粗糙,很多東西都是亂取樣。
- うん、そう思います。80年代のヒップホップって、サンプリングも雑でラフな感じでしたよね。
Then our era came, where we kind of added the funk to it.
接著我們的時代來臨,是我們開始把放克加入了嘻哈音樂裡面。
そこに僕らの世代がファンクを取り入れ始めたんです。
- 我們的音樂也開始加入大量現場演奏的樂器聲。所以音樂本來就是不斷進化的過程。它演變成現在這個樣子,也是理所當然的。
- ライブ楽器も多く使うようになって、音楽が進化していったんですよ。音楽って常に進化していくものなんです。今の音楽になっていくのは、ある意味当然の流れです。
- 所以我不會去說現在的音樂是垃圾,這不是我該說的話。我覺得現在的音樂也很棒。
- 今の音楽を「ダメだ」とか「クソだ」とか言うのは僕の立場じゃないです。今の音楽も素晴らしいと思ってます。
7. Jive Records Contract|與 Jive Records 的合約
Yeah, initially my contract with Jive was supposed to be—pretty much what Big Thangs was. More or less like a compilation album.- 對,其實我一開始跟 Jive 簽的合約,是預定要出一張像 Big Thangs 那樣的合輯。基本上就是集合很多藝人的那種合輯。
- そうですね、最初にJiveと結んだ契約では、『Big Thangs』みたいなコンピレーション・アルバムを出す予定だったんです。いろんなアーティストを集めたコンピアルバムって感じでした。
- 但當時 Jive 的總裁聽到了我跟 Pooh-Man 合作的 Fuckin' with Dank,他很喜歡我的聲音。
- でも当時のJiveの社長が、Pooh-Manとのインディーズアルバム『Fuckin' with Dank』での僕の声を気に入ってしまって。
He was like, “Man, he’s gotta rap—at least on every song,” or “Have a few solo songs.”
他就說:「這傢伙一定要 rap,至少每首歌都要有他,或者要有幾首是他的 solo。」
「彼には全曲でラップしてほしい。少なくとも何曲かはソロでやってほしい」と言い出したんです。
- 所以在錄音的過程中,我就這樣一首接一首地錄下去了。結果 Sittin’ on Somethin’ Phat 這張專輯,幾乎整張都變成是我在 rap。原本應該是做成 Big Thangs 那樣的合輯,這才是它本來該是的樣子。
- 録音を進めるうちに、どんどん自分でラップをする流れになっていきました。その結果、『Sittin’ on Somethin’ Phat』はほとんど全曲、僕がラップしてるアルバムになっちゃったんです。本当は『Big Thangs』みたいな作品になるはずだったんです。
8. T.W.D.Y. & Players Holiday | T.W.D.Y. 的組成與《Players Holiday》誕生
Yep. Producing T.W.D.Y. was pretty much my idea—Of getting people from the Bay Area—different people from different regions of the Bay Area—to form a group.- 對,T.W.D.Y. 基本上是我發想的構想。我當時的想法是從灣區不同地區找人來組成一個團體。
- T.W.D.Y.のプロデュースは、ほとんど僕のアイデアから始まりました。ベイエリアのいろんな地域からメンバーを集めて、グループを作ろうと考えたんです。
- 其實我原本想找更多人加入這個組合。Forte 來自舊金山,我來自奧克蘭,而 Captain Save’m 算是整個灣區到處跑、沒有特定地區。你很難說他是特定哪裡的人。
- 本当はもっと多くのメンバーを入れたかったんです。Forteはサンフランシスコ出身、僕はオークランド、そしてCaptain Save'mはベイエリア全体に関わっている存在でした。彼は特定の地区に属しているとは言えませんね。
So we pretty much had the Bay Area covered as far as having somebody from every region.
所以我們等於是把整個灣區的代表性人物都涵蓋進來了。
ベイエリア全域を代表するような布陣になっていました。
- 我們一湊在一起,就是化學反應、超有魔力。每次我們一進錄音室,就能做出一些超棒的東西。每個人都帶著自己的想法進來,這真的太美妙了。
- 僕らが集まると、まさに魔法のようなケミストリーが生まれたんです。スタジオに入るたびに、何か素晴らしい曲が生まれていました。みんなが自分のアイデアを持ち寄って、本当に素晴らしい時間でしたよ。
- 《Players Holiday》的誕生其實是有一天我坐著,隨便放 Bill Withers 的歌。我當時在放的是 Lovely Day,原本也沒打算用它來做什麼歌。
- 「Players Holiday」が生まれたのは、ある日僕がBill Withersの曲を流していた時のことでした。その時に流していたのが「Lovely Day」で、別にそれをサンプリングしようとは思ってなかったんです。
But as the hook came, I started singing those words: “Today’s the day the players play.”
結果副歌播到的時候,我突然跟著唱:「Today’s the day the players play(今天就是玩家們出動的日子)」
でもサビのところで、ふと「Today’s the day the players play」と歌ってしまったんです。
- 然後我就想:「哇,這有感覺耶!」我一邊聽著原曲,一邊把自己的歌詞唱進去。我心裡想:「去他的,這一定要做成一首歌!」
- その瞬間、「これだ!」って思ったんですよ。元の曲に合わせて、自然に自分の歌詞が重なっていった感じです。それで「よし、これを曲にしよう」と思ったんです。
- 這就是《Players Holiday》的誕生過程。我只是在那邊聽歌,試著想點什麼東西出來——我一開始根本沒想要用那張唱片。
- それが「Players Holiday」が生まれたきっかけです。ただ座って音楽を聴きながら、何か思いつかないかって考えてただけで——その曲を使おうなんて、最初は全然思ってなかったんですよ。
9. Lil Gangsta P | 關於 Lil Gangsta P 與專輯創作
- 對對對,這是我兄弟 Gangsta P,我的好兄弟 Pat。那時候是我一個兄弟 Kiki,他在 Erin Records 工作,他來找我。
- そうそう、これは俺の仲間 Gangsta P、つまり Pat のことです。俺の仲間の Kiki が Erin Records にいて、彼が俺のところに来たんです。
- 他就是我們其中一個兄弟啦。他也不是正式來找我做製作人的那種。
- 彼は本当に普通に仲の良い仲間でした。プロデューサーとして正式に依頼しに来たって感じじゃなかったです。
I volunteered to produce this album with him because I just wanted to see him blow up.
我是自願跟他一起做這張專輯的,因為我真的希望他能紅起來。
僕の方から「やらせてくれ」って感じで参加したんです。彼がブレイクしてほしかったから。
- 他一直都在外面 freestyle,他的風格很硬,你懂我意思吧? 然後我就想,「我一定要參與這個專案。」
- 彼はいつもラップしてたし、ほんとにタフなスタイルのラッパーだったんです。「俺もこれは参加せなあかん」って思いましたね。
- 我們越錄越多,我也一直幫他做更多的歌。P 真的超猛的,他是來自 The Village(奧克蘭一區)。他是我小兄弟,願他安息。
- 録音を続けるうちに、どんどん曲を作ってあげるようになったんです。P はマジでハードでしたよ。彼は「The Village」出身でした。俺のかわいい弟分でした…安らかに眠れ。
10. Advice for the Next Generation | 給年輕一代的建議
Um, really the best advice I can give anyone trying to get into the music industry is to dream big.
嗯,對於想進入音樂產業的人,我最好的建議就是:要有大夢想。
音楽業界を目指す人へのアドバイスは、「大きな夢を持て」ということですね。
- 一旦你有了夢想,就去實現它,把所有目標一個一個完成。
- 夢を持ったら、業界に飛び込んで、その目標をすべて達成するように努力すること。
- 你可以列出你想在音樂產業完成的事,然後一項一項去完成它們。當你這樣做時,你會慢慢看到你要去哪裡、該怎麼走。
- 音楽業界で成し遂げたいことをリスト化して、一つずつクリアしていくといい。そうしていくうちに、自分がどこに向かっているのか、どうやってそこへ行くのかが見えてくるはずです。
- 這個過程會指引你遇到該遇到的人,走到該走的地方。
- そうすれば、必要な人たちや場所に自然と導かれていくと思います。
- 還有,記得把你的旅程記錄下來。很多人進入這行後,會忘記那些曾經幫助過他們的人。
- そして、その旅の過程を記録することも忘れないでほしい。この業界に入ると、助けてくれた人たちのことを忘れてしまう人も多いんです。
But trust and believe—those same people will be around laughing at you when you're coming down.
但相信我,當你走下坡的時候,那些人會在一旁看著你笑。
でも間違いないのは、落ち目になった時に、その人たちは周りで笑って見てるかもしれません。
- 所以在你往上爬的時候,千萬不要砍掉任何一座橋。你要學會從容面對一切。對路上遇到的每一個人都要友善,因為你不知道他們是誰,或者將來會變成誰。
- だから、上り調子の時こそ、どんな人との関係も壊さないように。すべてを自然体で受け入れていくこと。道中で出会う人すべてに優しくしておいた方がいい。彼らが将来どんな存在になるか、誰にも分からないから。
後記
這次的訪問是在大阪的街頭拍攝,選在他們住宿飯店旁的河岸。Ant Banks 當天看得出來相當疲憊,可能因此沒有太多力氣深入回答問題。我必須快速聚焦重點,訪問節奏緊湊,沒有太多機會閒聊或延伸話題。對我這種素人部落客來說,這是一次很大的挑戰,心理壓力尤其大。總而言之,還是很感謝 II Tight Music 能促成這次的機緣,心中仍是十足感恩。如果你有仔細聽過他們音樂,就會知道 Ant Banks 的製作方式基本就是用樂器直接現場彈奏,因此音樂性極強,即便 Too Short 早期一些歌曲又臭又長,但結合 P-Funk 風格十足的貝斯和節奏,其實聽久了也不會膩。在我心目中, Ant Banks 就是奧克蘭嘻哈之神。
這次的兩篇訪問是我首次嘗試以三種語言(中、英、日)呈現,感謝 ChatGPT,畢竟我自己完全不懂日語。去年 CJ Mac 的訪問我自己覺得還算不錯,但在日本的點閱率仍然有限,後來 Shu 建議我可以加上日文字幕、讓更多日本觀眾能看懂。因此這次的部落格文章篇幅變得更長,不過如果能讓更多人跨越語言的隔閡,我覺得這樣的嘗試也許是值得的。
留言
張貼留言